淀屋橋のおはなし
橋長:53.50m
幅員:36.50m
形式:アーチ橋
完成:昭和10年
位置:北区、中央区
河川名:土佐堀川
大阪のビジネス街ですね。
中之島を開発し、淀屋橋をかけたのが江戸時代の豪商淀屋さんです。
淀屋は海運から海外貿易まで手掛ける江戸時代の総合商社とも言うべき存在で、その繁栄を支えたのは淀屋が創設した私設取引所でした。
当時国内における米の生産高は2700万石あり、商品として流通していた米の流通量は約500万石と言われています。
そのうち淀屋などを通じて大阪から全国へ流通されていた米は、実に40%以上の200万石にも登ったそうです。
当時の米は単なる穀物ではなく武士の給料など貨幣がわりにも使われていました。
淀屋は米の流通にあたって、現物ではなく手形を発行し、現物を持ってこなくても手形を使って取引できるようにしました。
米をわざわざ輸送せず、信用ある淀屋の手形を使えば、あたかも現物がそこにあるのと同じように取引できるのですから、当然皆淀屋の取引所を使うようになったわけですね。
やがてこのシステムは公営化され、堂島の米取引所につながっていきます。
こうして日本の米の流通を支配した淀屋の資産は史上類を見ないものとなりました。
毎日畳を替えるわ、天井をガラス張りにして金魚を泳がせるわ、めちゃくちゃですね。
淀屋の総資産は金12万両、銀12万5000貫、諸大名への貸付金だけで銀1億貫、その他総額で小判換算で20億両であったそうです。
両なんかわからん!
20億両とは現在の貨幣価値に換算すると、おおよそ200兆円とのことです。
SBの孫さんも動かせるのは数兆円なんだって。
1705年、あまりに多額になった淀屋から借入金が返済できないと見た幕府は、商人の分際で浪費三昧、風紀を乱すことはけしからんという訳の解らない理由で淀屋の財産を没収、大阪追放・・・
借金は帳消し、しかも淀屋の溜め込んだ金銀で国家財政は潤う。
幕府はこの時から商人の怒りを買ってたわけですか。
さてさて、大阪の商人はここで折れるわけもなく。
お取り潰しの動きを察知した淀屋は、密かに番頭さんの牧田家に暖簾分けして鳥取に商売の一部を逃がしていました。
その後鳥取の倉吉で存続していた淀屋はほとぼりが冷めると大阪に戻って、以前とは裏腹の堅実な商売で再び豪商として復活していました。
そして幕末。
1859年後期淀屋8代目当主淀屋清兵衛は全店舗を突如閉め、全財産を換金します。
そのわけ?
気づきましたか?
お金はすべて朝廷に献上し、淀屋さんは姿を消したのです。
150年前本家を取潰しにした幕府への復讐→倒幕の為でした。
討幕の志士もこのお金にずいぶん助けられたんでしょうね。
淀屋橋に後ろの市役所もよくマッチします。
0コメント